NHKはどこへ行くんだろう

 5年ぶりくらいにNHKの朝のニュースを見たら、あまりにも内容が薄くてびっくりしました。「世界のニュースザッピング」とか「世界が注目ネット動画」とか「まちかど情報室」とか、出勤前にわざわざ見たい情報とは思えないのですが・・・

 伝えるべき情報はいくらでもあるだろうに、取材や制作の予算が足りないんですかね? それともターゲットを主婦や学生に移行したとか?

 ふだんテレビを見ないのでどうでもいいのですが、あまりに安直な構成だったので、チャンネルを間違えたかと思いました。

出版不況

 たまに大型書店に行くと、凝りに凝った装丁や帯やPOPの洪水で気持ちが悪くなってしまうことがあります。私はそれを本屋酔いと呼んでいます。整然と並べられているのに、目に飛び込んでくる情報量が多すぎて脳が拒否反応を起こしてしまうようです。

 出版不況と言われるようになって久しいですが、なんとか手にとってもらおうと知恵や工夫を集結させた表紙を眺めるたび、編集者や営業担当者の努力がしのばれて胸が痛くなります。本当に短期決戦を強いられているんだなあと思います。

 編集職の友人は、売り上げを伸ばすために次から次へ本を出さないとならないので、じっくり作っている余裕がない、と嘆いていました。

 むかし広告論の講義で聞いた「雑誌はゴミである」という言葉が最近になってよく思い出されます。いまは「出版物はあまねくゴミである」といってもいいのかもしれません。書店に並べられている本が5年後にどれほど残っているのか、その本を作った人々の労力に思いを馳せると悲しくなります。

ソツない人々

 身近な人をカテゴライズして、心の中で肯定的/否定的な評価を下す人は少なくないと思います。ある基準で線引きをし、その人を「あっち側」か「こっち側」かに分類してしまうのは、同調できない自分への言い訳なのかもしれません。

 私のカテゴライズの基準は「ソツがない」かどうかです。ソツがない人と一緒にいると、無駄にプレッシャーを感じて疲れてしまうのです。

 なぜこんなことを書いているかというと、久しぶりにソツない人と知り合ったからです。

 ソツがない人は、言い換えればスマートな人です。やることなすこと的確で、所作は落ち着き払って隙がなく、着こなしや持ち物のセンスが良かったりします。教養があり、時間に正確で、突っ込みどころがありません。

 こういう人はいったいどうやってソツのなさを身に付けたのでしょう? 私には生まれながらに備わった素質としか思えないのです。難関大学出身でも大手企業の社長でもスマートでない人はたくさんいますし、兄弟だって片方は何でも無難にこなし、片方は世渡り下手という場合もあります。努力や知識や経験で補えるようなものではないような気がします。

 もちろん、ソツない人々がきちんと努力をしてきたことは分かるのですが、努力の仕方さえ無駄なく抜かりなくスマートであるように見えます。彼らは他人のミスにも寛容です。どうしてこんな簡単なことができないんだろう、と思っても、これっぽっちも態度に表したりしません。そして、腹を立ててもいい場面では逆ににこにこしたりして、懐の深さを見せつけたりします。同じ土俵に立ちたくないというわけです。

 私にとって、ソツがない人というのはなんだか得体が知れず、一緒にいても気を抜けない存在です。つまらないミスをしでかして、しょんぼりしたり言い訳している人の方が人間らしくて信用できるような気がするのです。

 考えてみれば、高校時代にもソツないクラスメイトがいました。飛び抜けて目立つ存在ではないけれど、成績上位でセンスが良くて大人びていました。私はその頃から、周りの人をソツがないかどうかで分類していたのでした。

リンゴをめぐる思い出

 まだパソコンが一人一台でなかった頃の話です。

 当時、私はずいぶん年上の男性と付き合っていました。彼は中古のマッキントッシュを手に入れたばかりで、私にその素晴らしさを伝えたいと苦心していたようでした。でも私はパソコンとワープロの違いすら分からず、インターネットの概念などちんぷんかんぷんでした。彼は色んなことを辛抱強く説明してくれましたが、私はなぜそんな箱に夢中になれるのかさっぱり理解できませんでした。

 それでも、そのマッキントッシュは私が初めて遊び道具として認識したコンピュータでした。

 彼はパソコンに興味を示さない私に、マシンの性能を小人に例えて説明してくれたことがあります。この箱は古いから、中に入っている小人の数が少ないんだよ、だからみんなでわっしょいわっしょい動かしてもすぐに疲れちゃうんだよね、と。起動するだけで15分くらいかかっていたので、私は三角帽をかぶった小人が必死に歯車を回している様子を思い浮かべたりしていました(将来パソコンを自作するようになるとは思いもしませんでした)。

 ある冬の日、彼と散歩中にたまたま立ち寄ったフリーマーケットで、古い小さなマッキントッシュ(たぶんSE/30)を見つけました。キーボードはなくて本体だけ。出品者に「よかったら床の間にでも飾ってください」と言われ、彼は2000円を払ってその小さい箱を連れて帰りました。うちに帰って電源を入れると泣きべそアイコンが出てきて、ちょっと切ない気分になったことを思い出します。

 しばらくして私は彼と別れ、数年してデザイン会社に転職し、最新のパワーマックを使うようになりました。最新といっても重いデータをいじるとじきに動作が不安定になるので、私は動きがのろくなってくると心の中でこっそり小人に声援を送っていました。

 そしてデザイン会社を辞める頃、新しい恋人からお古のパソコンを譲り受け、私とマッキントッシュの関係はひっそりと終わったのでした。

 スティーブ・ジョブズの訃報に接して、フリーマーケットで小さいリンゴのマークを見つけた時の彼の嬉しそうな顔を思い出したので書いてみました。あれからずいぶん時が流れましたが、彼がいまもちびマックを持っているといいなあと思います。

癒し本

 本屋に行くといまだに「断捨離」とか「捨てる技術」とか捨てる系収納系の本が平積みにされていて、エコエコ言いながら相変わらず世間はごみで溢れているんだなあと感じます。洋服を20袋処分したとか、靴を30足捨てたとか、すさまじい溜め込みっぷりについ日本の行く末を案じてしまいます。

 そんなことを思っていたら、益田ミリの「僕の姉ちゃん」がうまいこと解説していました。結局のところ、収納本もダイエット本も「本気になれば私だってできる」と確認して安心するための「癒し本」なのだと。20袋の洋服を処分した人が、再び不必要な20袋を溜め込まないよう祈るばかりです。

 かく言う私は持ち物がかなり少なくて、くたびれたセーターとかTシャツくらいしか捨てられるものを思いつきません。もともと物欲や所有欲があまりないし、今まで20回くらい引っ越しているので、その時々に持ち物を整理しているから身軽です。そして、引っ越しを繰り返しているせいで、物を増やすことに慎重になってしまったようです。

 3月の震災後、東京から一時的に疎開したのですが、その時に持ち出したものが自分にとって本当に大切なものなのだろうと思います。スーツケースに詰め込んだのは、印鑑通帳契約書の類と当座の着替えのほかは、パソコン、お気に入りのコートと靴、ネパールで買った曼荼羅くらい。あとは手紙や思い出の雑貨(ほとんどがいただきもの)でした。

 パソコンも本当はHDDだけあればいいので、バックパック1個で日本を離れることさえできそうな気がします。蔵を持っているような人は、背負うものが多すぎて大変な人生なんだろうなあ。